PS:不用訂
中世期における天皇の権威を失うことと武家の決起
はじめに
武家の歴史のはじめに現れるで、平安時代後期の前九年?後三年の役であった。保元の亂は、後白河天皇方にとっても、崇徳上皇方にとっても、武家の力が一番必要だった。この公家の內部抗爭の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約七百年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。この亂を終わりの時、平氏の清盛は、日本初の武家政権を打ち立てた。
でも、その時、天皇と公家の権威も存在であった。なぜその後の中世期ので、天皇と公家が衰えかったか。この衰退はいつはじめか。なぜ足利義満は名実ともに公武両勢力の頂點に上り詰めたし、摂関家の人々にも偏諱を與えるようになるなどその勢威はますます盛んになるし、三條公忠が「先例を超越した存在」と評したし、掣肘できるものは皆無に等しかったか。
それらは相論で、この文章の目的になる。
一鎌倉期の武家、朝廷と天皇
治承?壽永の亂以降、源頼朝は、建久3年(1192年)7月12日に徵夷大將軍に任じられた。
これにより朝廷から半ば獨立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。
徵夷大將軍は、奈良?平安期に、「夷狄」を徵討したため任命されで、臨時存在の官職であった。「日本紀略」には延暦13年(794年)1月1日に大伴弟麻呂は徵夷大將軍として節刀を賜うたとあり、蝦夷徵討で大きな戦果を挙げる。これが「徵夷大將軍」の初見した。
源頼朝は奧州藤原氏徵討のために、その官職は必要であった。これ以外に、徵夷大將軍は鎮守府將軍と同様に軍政(地方統治権)を敷く名分であり、関東の獨立した政権を建立したために、これがなければならないそうになる。
その徵夷大將軍は、武家の棟樑であった。「鎌倉殿」を呼ばれるので、守護?地頭を置き、軍事?警察権を掌握するので、政所?侍所など公的な政治機関をおく権力があった。
あの権力は、もと朝廷だけで掌握した。でも、「鎌倉殿」は、これをきっかけにして、京都は中心、鎌倉は二次的な中心とする構造が生まれて、東國の王権が成立であった。
もちろん、この時、鎌倉府の在地支配と地頭の設置は、平家沒官領などに限定されて、権門の支配権を侵害しないであった。
でも、承久元年(1219年)は、三代將軍源実朝が頼家の子?公暁に暗殺したので、頼朝の直系が斷絶した。そして、後鳥羽上皇は、治天の君の獨裁體制を目指すため、鎌倉府打倒を計畫するようになりました。それで「承久の亂」であった。
その「承久の亂」の結局は、鎌倉幕府が十九萬騎を上洛ので、上皇の命を受う西國の武士完全な失敗した。首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島、討幕計畫に反対していた土御門上皇は土佐國で配流された。仲恭天皇は廃されで、後鳥羽上皇の息子六條宮雅成親王?冷泉宮頼仁親王も配流された。「合戦張本公卿」と名指しされた一條信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂ら公卿は鎌倉に送られる途上で処刑され、坊門忠信らその他の院近臣も各地に流罪になったり謹慎処分となった。
幕府は、院政の財政的基盤であった長講堂領や八條院領などを含める3000箇所が沒収されて、功労がある御家人に新補地頭が大量に補任された。多くの御家人が西國に移り住むこととなり、鎌倉幕府の勢力が全國を拡張した。
同時に、親幕派の公卿、例え西園寺公経が內大臣に任じられて、六波羅探題を設置されて、朝廷が監視し、統制が強化されて、朝廷は幕府に完全に従屬した。
文永9年(1272年)、後嵯峨上皇が自らの後継者の意図を不明したので死去であった。次代の治天の指名は鎌倉幕府の意向に従うようにという遺志だけが示された。そして、鎌倉幕府は天皇継承を決定した。それは王家の分裂の発端でした。
二鎌倉中期以降鎌倉幕府の難儀と後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒
文永?弘安期とは、モンゴル帝國と高麗による二度の日本を侵攻であった蒙古襲來と呼びました。しかし、日本は勝利を得るといっても、さまざま問題もあるので、鎌倉幕府が大きな問題を直面なければならない。
一つ、戦爭のため、御家人の困窮した。元軍に大勝した鎌倉幕府は、物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちを不満にしたとされる。竹崎季長は鎌倉まで赴いて直接幕府へ訴え出て、恩賞を得ている。
しかし、季長ような人間はやぱり少しであった、恩賞給與がなされなかったのは、異國警固番役、京都?鎌倉大番役も鎌倉時代末期まで継続されたため、御家人たちが窮迫した、借金せざるを得なくなった、苦しむようになった。それで二つでした。
三つ、借金せざるを得なくなったから、自らの荘園を抵當にするし、最後多分破産でした。幕府は破産の御家人に絶望の中から救いだずため、徳政令を発布した。
でも、新しい問題點があります。徳政令を発布した以降、御家人たちは商人たちに借金できない、そして、御家人の不満は解消できません。
そして、御家人階層の沒落傾向に対して新興階層である悪黨の活動が活発化していき、御家人らの中にも鎌倉幕府に不信感を抱くものが次々と登場するようになった。
それで鎌倉幕府の崩壊原因でした。
一方、後醍醐天皇では、大覚寺統の庶流し、父後宇多上皇は、あくまでも邦良を自分の正統な後継者と考えており、後醍醐の即位は邦良が成人するまでの中継ぎでしかなかった。
つまり、後醍醐の子孫は皇位継承権を原則としてありません。でも、院政が再開された後宇多は、元亨元年(1321年)には治天の政務を後醍醐に譲り、そして、當時、後醍醐の地位が「一代主」と表現されている。
そして、後醍醐は鎌倉幕府の力を借り、自分の息子?世良が皇位継承を念願だった。しかしながら、世良親王が夭折し、その野望を破滅した。
自らの立場に納得できない後醍醐の感情は、政務を掌握してからのきわめて精力的な政策展開にも表現されている。これまで歴代の治天が進めてきた訴訟処理機構の整備や迅速な訴訟処理、有為な人材の登用などは當然であるが、後醍醐は、沽酒法(米価?酒価公定令)、洛中への地口銭賦課などの経済政策にも取り組み、さらには洛中酒鑪役賦課令、神人公事停止令、関所停止令などを発して、それまで治天の権限の及ばなかった領域へも積極的に手を伸ばして朝廷自體の権力基盤の拡大をも目指した。
しかし、このような新政策は、當然、既得権を侵害される貴族?大寺社の抵抗や全國統一政権としての性格を強めつつあった幕府の規制を受けて充分な成果を挙げることはできなかった。また、後醍醐は朝廷內部で孤立しており、手足となって働く人材が不足していた。後嵯峨の治世以來整備されてきた朝廷の訴訟処理機構で伝奏や奉行などの役職に就き実務を擔う家柄(名家の家柄)を確立させてきた貴族たちは、すでにいずれかの皇統に組織されてそれぞれ主従関係を結んでいた。持明院統に仕える貴族たちが後醍醐に協力しなかったのはもちろん、大覚寺統に仕える貴族たちも多くは「一代主」でしかない後醍醐よりも嫡流の邦良に仕えることを選んだ。後醍醐に仕えたのは、學問や芸能、信仰などを通じて後醍醐と個人的なつながりのあった者や、新たに名家の家柄への上昇を目指す低い家格の家系の出身者が中心だった。
「一代主」の立場を甘受することもできず、自らが理想とする政策を充分に実現することもできなかった後醍醐は、唯一の突破口として武力により既存の政治秩序を根こそぎ破壊する道を選ぶことになる。當時、相続に関して父母の遺言は絶対的な効力を持っており、幕府や朝廷の法廷でも容易にそれを覆すことはできなかったほどである。後宇多の定めた皇位継承プランを尋常の手段で変更することは難しかった。まして、両統迭立が幕府の方針として明確にされている以上、後醍醐の攻撃対象に幕府も含まれることになるのは必然的だったと言える。
しかし、後醍醐の第1次の武力倒幕計畫が密告により発覚したのは、これは正中の変でした。計畫は事前に幕府に漏れ、參畫した者はある者は殺害され、ある者は逮捕されたが、幕府の対応は微溫的であり、朝廷関係者では、後醍醐の側近日野資朝が佐渡に配流されただけで後醍醐は罪を問われなかった。
後醍醐と不和になっていた邦良は、正中の変以後、後醍醐を早期に譲位させるようたびたび幕府に請願していたが、正中4年(1326年)に死去してしまう。持明院統の嫡子量仁のほか、後二條が死去した際に立太子の機會を逸した恆明、邦良の同母弟邦省、後醍醐の第1皇子尊良親王らが次の皇太子の座を爭い、最終的には幕府の裁定で量仁が皇太子に指名された。邦良も幼い男子を遺しており、彼らも將來は後醍醐の強力なライバルとなり得る立場にあって、後醍醐の「一代主」としての立場は幕府の権威のもとでますます明確となり、後醍醐の倒幕志向もますます強まることになった。
それで、第2次の武力倒幕計畫も元徳3年(1331年)にやはり密告により事前に発覚した。今回は幕府の対応は素早くまた強硬だった。後醍醐は予定を早めて武裝蜂起(元弘の亂)に踏み切ったが、幕府は関係者の逮捕に着手するとともに、大軍を動員して鎮圧に乗り出し、後醍醐も逮捕されることを避けて京都を脫出し自ら叛亂軍に加わった。京都を制圧した幕府は、本人不在のまますぐに後醍醐を廃位し、皇太子量仁(光厳天皇)を踐祚させた。この年8月、京都脫出の直前に後醍醐は元弘と改元しているが、幕府はこの改元も認めず、もとの元徳の元號をそのまま使用させた。まもなく後醍醐は捕虜となり、承久の亂の先例に従って謀反人として隠岐に配流された。計畫に參畫した皇子たちや貴族たちも死刑を含む厳罰に処された。
PS:嘛,這次是真的拿論文來湊數了,至於改嘛……等我慢慢改吧,現在腦子裡都是新書,實在是沒有心思再繼續寫這個。明明三期都還沒出場,殘念,太殘念了。不過也沒辦法,大約就這樣了吧。可能會寫一些殘破的三期的小劇場。(喪失思考能力的我x)